7月17日にスタートするTBSテレビドラマ「仰げば尊し」で寺尾聰さんが主演を演じます。
寺尾聰さんが演じる中澤忠雄さんは実在した人物で、ドラマでは樋熊迎一として登場します。
事故の後遺症で音楽に背を向けていた元プロサックス奏者の樋熊迎一(寺尾聰)が、荒れた県立高校の不良グループたちを弱小の吹奏楽部に引き入れ満身創痍で指導して、ついには「音楽の甲子園」で全国一になるまでの感動ストーリーです。
寺尾聰さんは、音楽家としての豊富な実績もありますので、まさにはまり役だと思います。
そんな寺尾聰さんの学生時代から今日に至るまでの経歴や家族のことなどをまとめてみました。
寺尾 聰(てらお あきら)プロフィール
寺尾聰さんは1947年5月18日の生まれですので、まさ団塊の世代の真っ只中で生きてきた方ですね。
今ではすっかり演技派俳優としての顔が定着しているものの、少年時代は洋楽に興味があったそうです。
寺尾聰さんが過ごした中学、高校時代はベンチャーズを筆頭にした、エレクトリックギターを主軸としたインストゥルメンタル・バンド全盛時代でした。
テレビでは、エレキバンドのオーディション番組が大人気でした。
寺尾聰さんも、少年期よりエレキギターを独学で練習していたそうです。
当時は、エレキギターをやるものは不良だと思われている風潮がありましたので、いまから考えると信じられませんよね。
寺尾聰さんは、高校野球を目指して高校野球の名門校に入りましたが、野球をやる以前に問題を起こして退学になったそうです。その後も高校1年を3回もやるような問題児だったそうです。
いまの寺尾聰さんからは、ちょっと想像できないですよね。
寺尾聰さんは、1960年代ザ・サベージというバンドで、ベーシストとして活躍していました。
ザ・サベージは、フジテレビ「サトウ勝ち抜きエレキ合戦」で あのザ・ゴールデン・カップスと競って優勝しています。
ザ・サベージは優勝したことで、ホリプロダクションから声がかかり、1996年にプロデビューしました。デビュー曲の「いつまでもいつまでも」は、大ヒット曲となります。
寺尾聰さんはベースギターとボーカルを担当して、ゆったりとした甘い声で歌いあげていましたね。
B面の「恋の散歩道」は、寺尾聰さんの作詞、作曲です。この頃から音楽の才能があったんですね。
ザ・サベージは続けて出した「この手のひらに愛を」もヒット曲となりますが、寺尾聰さんは、2年ほどで脱退して、三保敬太郎さんを中心としたグループ、ホワイト・キックスに加入します。
そのときに、三保敬太郎さんから俳優の息子なんだから俳優を目指せと言われて、強制的に首になったことが、俳優を目指すきっかけになったそうです。
その後すぐに、石原裕次郎さん製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューを果たします。
それが縁で、石原軍団に入りテレビドラマや映画で活躍しはじめます。
「大都会」では新聞記者役「西部警察」などアクション・ドラマではの刑事役を演じていました。
実は寺尾聰さんは、29歳のときに胃の80%を切除する大病をしました。このときに4日間意識不明で、体重が20kg 減ってしまったそうです。
体調がなかなか戻らず仕事もしばらく出来なかったそうです。そのときに昔から貯めていた曲を誰かに歌ってほしいと思いレコード会社にデモテープを持ち込んだそうです。
その中の1曲に寺尾聰さんご自身が歌っていた曲があり、それがレコード会社の目にとまりレコード化することになりました。その曲こそが「ルビーの指輪」だったんです。
「ルビーの指輪」は134万枚を売り上げる大ヒット曲となり、寺尾聰さんは一躍時の人なりました。
「ルビーの指輪」は、TBSの人気歌謡番組「ベストテン」で12週連続1位という最長記録を打ち立てました。
いま聞いても寺尾聰さんの独特の感性を感じるいい曲ですね。
そしてその年には、第23回日本レコード大賞、FNS歌謡祭’81グランプリを受賞し、第32回NHK紅白歌合戦にも初出場しています。
また、すべての曲を自分で作曲したアルバム「Reflections」は、164万枚を記録し、井上陽水の「氷の世界」の売上記録を8年ぶりに更新する大ヒットアルバムとなりました。
一方寺尾聰さんは、石原プロが得意としているアクション物より、俳優として人間の内面を演じる作品をやりたい意向もあり、石原プロから離れることになったそうです。
寺尾聰さんの父親である宇野重吉さんと石原裕次郎さんは、昔から親交が深かったこともあり、寺尾聰さんが石原プロを離脱した後も、石原裕次郎さんとは友好的な関係が続いていたそうです。
石原プロを離脱してからは、黒澤明監督の「乱」「夢」「まあだだよ」などに出演し、2001年には、黒澤明さんの遺稿を映画化した小泉堯史監督の「雨あがる」に主演して、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しています。
また、2004年も「半落ち」で2回目の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しています。
日本アカデミー賞最優秀主演男優賞と日本レコード大賞の両方を獲得しているのは、いままで例がなく寺尾聰さんだけなんですね。
寺尾聰の父親は宇野重吉
寺尾聰さんの父親は、宇野重吉さんです。本名は寺尾信夫ですので、寺尾聰さんの名前は本名なんですね。
宇野重吉さんは、福井県福井市の出身で、劇団民藝の創設者であり日本でも代表的な劇団に育て上げたかたです。
俳優としては、独特の飄々とした演技と語り口で、演技派の名優の一人でした。
俳優以外にも演出家、映画監督しても活躍していました。
1954年から劇団民藝は、日活と業務提携をして、宇野重吉さんとはじめ滝沢修、芦田伸介という民藝の演技派俳優が脇役として出演していました。
そのとき以来、石原裕次郎さんとの付き合いがはじまり、後に宇野重吉さんと石原裕次郎さんはとても仲が良くなったそうです。
宇野重吉さんは、後年は肺がんを患い、お医者さんにとめられても点滴を受けながら舞台に立ち続けたという、凄まじい役者魂を感じます。
宇野重吉さんは、1981年に紫綬褒章を受賞されています。寺尾聰さんも2008年に紫綬褒章を受賞されていますので、親子2代に渡る受賞って凄いことですね。
寺尾聰さんは、宇野重吉さんが生きているときは、宇野重吉の息子と言われることに抵抗があったようですが、宇野重吉さんが亡くなってから父親の偉大さに気づき意識が変わったそうです。
いまでは「お父さんに似てきましたね」と言われることが本当にうれしくなったそうです。
また、黒澤明監督を師匠そして恩師として尊敬しているそうですが信者ではないそうです。俳優に流派があるとすると、「宇野重吉流派で自分が一人だけの門下生です」とTBS「サワコの朝」で話していました。
寺尾聰さんがいかに父親の宇野重吉さんを尊敬しているかが表れているいい話ですね。
寺尾聰の母親
寺尾聰さんのお母さんは、元々心臓か悪くあまり長く生きれないかも知れないと思われていたそうですが、いまも99歳でご健在です。寺尾聰さんは、それが何よりも嬉しいそうです。
寺尾聰さんのお母さんは、寺尾聰さんが高校1年生を3回も繰り返したときも、「他の人では中々出来ないことだから」ということで赤飯を炊いて祝ってくれたそうです。
そのような素敵なお母さんに育てられたから、いまの寺尾聰さんの人柄があるんでしょうね。
寺尾聰の嫁と子供
寺尾聰さんの奥さんは、元モデルの星野真弓さんです。
星野真弓さんは、1979年秋の資生堂CM「微笑の法則」に出演したことで注目されました。スタイル抜群の美人さんですね。
寺尾聰さんと星野真弓さんが、テレビドラマ「西部警察」の九州ロケで共演したことが、結婚するきっかけになったそうです。星野真弓さんは、寺尾聰さんより一回り以上年下とのことですので、若い時に結婚されたんですね。
寺尾聰さんは、それ以前に女優の范文雀さんと1973年に結婚しましたが、1年ほどで離婚されています。
范文雀さんと結婚する前に、ジュディ・オングさんと交際していたようですが、結婚には至りませんでした。
寺尾聰さんがジュディ・オングさんに家庭に入ってほしい希望があったようですが、ジュディ・オングさんは仕事を継続したい意向があったため、関係がうまくいかなくなったようですね。
范文雀さんとジュディ・オングさん、お二人とも台湾出身なのは偶然でしょうか。
寺尾聰さんの子供ですが、娘さんがいます。女優鈴木杏さん似の美人さんだそうです。
寺尾聰さんは、お孫さんが5人いるということですので、他にもお子さんがいる可能性がありますが、プラベートなことはあまり外に出していませんので、それ以上のことはわかりませんでした。
まとめ
寺尾聰さんの父親は、往年の名優宇野重吉さんです。
寺尾聰さん、宇野重吉さんともに親子2代に渡って紫綬褒章を受賞されています。
寺尾聰さんの奥さんは、元モデルの星野真弓さんで、女優鈴木杏さん似の娘さんが1人います。
寺尾聰さんには、これからも深みのある味のある役者としてのますますの活躍を期待したいと思います。
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