杉山隆一さんは、「黄金の足」と言われ、釜本邦茂さんと名コンビを組んで、1968年のメキシコオリンピックで銅メダル獲得した立役者でした。
1964年の東京オリンピックで、当時も世界の強豪国であったアルゼンチンを破る番狂わせで、世界に衝撃を与えましたね。
杉山隆一さんは、俊足を活かしてアルゼンチン選手を翻弄した。その活躍を見て、試合後アルゼンチンからは20万ドルの移籍金を提示され、「20万ドルの黄金の足」と言われた。
その杉山隆一さんと、ジュビロ磐田の関係についてまとめてみました。
プロフィール
名前:杉山 隆一(すぎやま りゅういち)
生年月日 :1941年7月4日
出身地: 静岡県清水市
身長: 169cm
体重 :67kg
ポジション: FW MF
高校: 静岡県立清水東高校
大学:明治大学
1966-1973 三菱重工業
1974-1983 ヤマハ発動機
ジュビロ磐田の生みの親は、「黄金の足」杉山隆一
杉山隆一さんが、清水に足の早い選手がいると注目され始めたのは、高校のときからでした。
杉山隆一さんは、バランス感覚が抜群に良く、俊足でドリブルを武器をしていました。
特に際立っていたのが、走り始めて即トップスピードになることでした。
明治大学から三菱重工業に入社。1年遅れてヤンマーに入社した釜本邦茂さんとの、日本リーグでのライバル対決は、たいへんな人気で多くの観衆が熱狂しました。
三菱重工業を退社後は、静岡の実家の酒屋を継ぐつもりでしたが、当時静岡県社会人リーグ2部のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)から要請されて監督に就任します。
わずか4年で日本リーグ2部に昇格しますが、監督時代は相当苦労をしたようで、一気に白髪となったことに驚きました。
杉山隆一さんが、ヤマハ発動機の監督に就任していなければ、恐らく日本リーグに昇格することもなく、ジュビロ磐田としてJリーグに参加することは、なかったかも知れませんね。
そのような経緯を考えると杉山隆一さんがジュビロ磐田の生みの親、そして基礎を作ったのではないでしょうか。
まとめ
杉山隆一さんは、選手としても大活躍、選手引退後はヤマハ発動機の監督となり、ジュビロ磐田の基礎を築きました。
優秀な選手が良い指導者になるとは限らないとも言われていますが、杉山隆一さんは、選手としても指導者としても一流だったと思います。
メキシコ五輪でしたかね、包帯姿で左サイドを駆け上がったプレーは感動ものでした。
今は選手層が厚いので考えられませんが大和魂そのものでした。
長沼監督と岡野コーチのコンビだったと思います。
テルズキ様、コメント有難うございます!
メキシコ五輪の予選でしたね。肩の脱臼をした状態で試合にでて、最終戦の南ベトナム戦で、杉山さんがあげた唯一の得点で勝利して、メキシコ五輪の出場が決まりました。もし引き分けていれば韓国が出場していましたので、本当に貴重なゴールでした。
当時の選手は各々が独特の個性を持ちメンタル面では非常に強かったように思います。その個性派集団を長沼監督、岡野コーチの名コンビで、選手をまとめたことがメキシコ五輪の銅メダルに繋がったと思います。