ペドロ&カプリシャスの2代目のボーカリスト
そしてソロシンガーになってからも、さらに大活躍している
高橋真梨子さんについてまとめてみました。

プロフィール

芸名:高橋真梨子 (たかはしまりこ)
本名:広瀬 まり子
出身:広島県廿日市町(現・廿日市市)生まれ、福岡県福岡市育ち
誕生日:1949年3月6日
身長:155cm
所属レコード会社:ビクターエンタテインメント
高校:駒沢学園女子高等学校卒業
夫はヘンリー広瀬
代表曲「桃色吐息」「はがゆい唇」「ごめんね…」などがある。

高橋真梨子さんのお父さんは、プロのジャズクラリネット奏者でした。
高橋真梨子さんから歌手になりたいと相談されたとき
ポップスやアイドル歌手を目指すのではなく、難しいことから
やったほうがいい、と言われジャズの基本練習から始めたそうです。

やさしいお父さんが、15才のときに亡くなったこともあり
16才のときに博多のクラブで歌い始めました。
その歌唱力ですぐに評判となり、東京の大手プロダクション
(渡辺プロ)からスカウトされて上京します。

当時は、伊藤ゆかりなどが所属するスクールメイツとして
アイドルになることが求められていました。
お父さんのおかげで、スタンダートジャズなどの難しい曲を
勉強していたこともあり、アイドルとしての活動は
馴染めなかったそうです。

スクールメイツ時代は、中尾ミエ、木の実ナナなど15名くらいで
渡辺プロ社長の家で、共同生活をしていたそうです。
アイドル歌手は向いていないと思い、高校を卒業と同時に
博多に戻ることにしました。

そして再び博多のクラブで歌いだしたときに、
ペドロ&カプリシャスの2代目ボーカルとして誘いを受けました。
博多が好きで2度と東京にでないと決めていた高橋真梨子さんは
度々の誘いも断り続けていたそうです。

最終的には、「1年だけという約束で行ってあげます」という
気持ちで引き受けたとのことです。

後にご主人となるヘンリー広瀬さんは、当時の高橋真梨子さんの
印象を次のように語っています。

「普通は歌手として、いつかはメジャーになると思っている
と思うのですが。その時は(そのような気配がないので)、
変な子だなと思いつつも、生意気だなというのはありましたね」

確かにペドロ&カプリシャスは、すでに「別れの朝」で
メジャーになっていたので、そこのメインボーカルですから
普通は喜んで誘いを受けますよね。

ペドロ&カプリシャスで高橋真梨子さんのデビュー曲、
「ジョニーへの伝言」は、当初まったく売れませんでしたが、
1年の約束が終わるころになって、大ヒット曲に。
その後も「五番街のマリー」など次々にヒットが続き、
2年後の1974年には、NHK紅白歌合戦にも出場しました。

その後、ペドロ&カプリシャスのメンバーが次々脱退したので、
高橋真梨子さんもやめて、博多に帰ろうと思っていました。
その時に、あるプロジューサーの言葉でソロになることに。

1978年、29才でソロシンガーとしてデビュー。
その後「桃色吐息」「はがゆい唇」「ごめんね…」などの
数々のヒット曲を出しています。

1993年には、カーネギホールで初コンサートも大成功。
辛口で有名な New York Times からも

「ミス高橋の歌声は、温かく控えめなメゾソプラノで
やさしさと切々とした思いに満ちあふれている」

と高い評価を受けました。

今年(2016年)デビュー50周年で、カーネギホールで
3回目のコンサートを行いますが、カーネギホールで
3回やる日本人は、初めてだそうです。

高橋真梨子さんは、歌うことに関して、

「私にとって歌うことは、特別なことではなく、生活の1部。
生きる上で絶対になくてはならないもの。いわば衣食住に近いです。
頑張ってやるというより自然にやっていることです。・

また、歌い方については、

「魂をこめて歌うとか、感動を与えたということは
まったく考えていません。
もちろん歌への情熱はあるけど、
自分の中にはクールな部分があります。
演歌の人たちは、歌詞をもっとさらに表現していくことは
素晴らしいこと。
だけど、私の場合は、歌が無国籍なので歌詞がある分
それをやると過剰になってしまうので、自分でも
いやになるので。」
「歌の主人公は、あくまでお客さま。自分から押し付ける
主役にはならない。
歌を聞いたお客さんが、それぞれに感じてもらえばいいんです。
ですから淡々と歌い伝えるだけです。」

高橋真梨子さんの歌の魅力が、さらにわかったような気がします。

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高橋真梨子の更年期障害と夫ヘンリー広瀬の支え

高橋真梨子さんは、ご主人のヘンリー広瀬さんと、
高橋真梨子さんが、ソロシンガーとしてスタートしたときの
バックバンドとして、新たな付き合いが始まっています。

ある夜の出来事がきっかけで、二人は結婚することになったそうです。

「NHK団塊スタイル」内で思い出を語っています。

ヘンリー広瀬さん:
「神戸でのコンサートが終わったあと、飲みにいくことになりました。
そのとき彼女は失恋をして塞ぎこんでいて、アルコールも相当入って
いたので、ホテルまで送っていきました。当然部屋は別々だから
彼女をベッドに寝かしつけてから、僕はバスダブにお湯をはってから、
好きなときに入ってね。
それじゃ、また明日。おやすみ、と部屋をでていきました。」

高橋真梨子さん:
「このまま寝たらお化粧も落とせないし、とにかくザブンと
入ったら、あ〜気持ちいいって思って、酔いも一気に覚めて
なんか湯加減がいいな。
意外にあの人センスあるじゃん」

ヘンリー広瀬さん:
「昨日のお風呂の温度が最高って言われた、彼女の言葉で
ほだされた。
そのとき自分もバツイチで、精神的にも落ち込んでいるときで
人に感謝されたり、喜ばれることがない時期だったので
彼女の感謝の言葉にキュンとなった。
いままで、隣にいてもけんかばかりしていた人が
女性として意識するように瞬間的になった。」

そして二人は、一緒に暮らすようになり、10年後の1993年
高橋真梨子さん44才、ヘンリー広瀬さん49才に入籍、
公私共に2人で歩むことになります。

1996年、高橋真梨子さん47才のときに、高橋真梨子さんの
身体に異変がおきます。

コンサート中に突然声がでなくなります。
その後、原因不明のめまい、手足のふるえ、食事ができないので
痩せていく、外出できないなど重度の更年期障害になりました。
半年間の休業も余儀なくされます。

ヘンリー広瀬さんは、当時のことを

「そのとき初めて夫婦で一緒にいて”助けて”と言われた。
ふっと、そうだ。僕は旦那だっていうのを、はっきり
感じるようになって、二人でとにかく向き合って
更年期障害を乗り越えようと思った」

「あのときは、結構2人でこれだけ涙がでるものかなと
いうくらいに泣いたよね」

「彼女が料理ができなくなったので、自分が少しづつ料理を
覚えていった。
結婚しても、女性と男性が一緒に暮らしているくらいしか
思っていなかったが、彼女が更年期障害になって、
彼女にとって自分が必要とされていると実感した。
僕が支えていかないければと思った。それに気持ちが乗って
どんどんできるようになり、成長していった。」

高橋真梨子さんは、
「ヘンリーがいなければ、いまの自分はありません。
ヘンリーが支えてくれて、本当に幸せでラッキーだったと
思います」

ご夫婦で重度の更年期障害を二人で乗り越えてきたことで
さらに絆が深まったと感じました。

公私共に常に一緒にいて、お互い尊敬しあって、
ベタベタした関係ではないけど、お互いを必要と
しているご夫婦って、本当に素敵だと思います。

まとめ

高橋真梨子さんは、死ぬまで現役で歌を歌い続けるそうです。
テレビにはあまりでませんが、コンサートは年間50回ほど
やっていますので、機会があれば高橋真梨子さんの
生の声を聞きにいきたいと思います。

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